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2018 夏のツドイのご報告

−憲法をめぐる細いけれども強い糸−


レポート|発起人 廣瀬俊介



 こどもの未来にYES!をつくろうネットワークは、8月25日(土) 17:15より宇都宮大学峰キャンパスにて、夏のよみとくツドイを開きました。テーマは「地域から、足もとから考える憲法と平和」として、講師にNHKプロデューサーの塩田純さんをお迎えし、塩田さんが制作された番組の一部を説明いただくなどしながら皆さんと学び合いたいと企画しました。


 参加者からは、日本国憲法が「『押しつけられた』のでなく日本人がどうしてきたか、表に出てこない人について掘り起こすなどもして調べてきていることに説得力を感じた」「今の憲法がさまざまな日本人の考えを入れてつくられていることがわかった」などの感想をいただきました。

 

 日本国憲法の成り立ちについて大変勉強になったツドイの内容を、以下詳しくお伝えします。



1. はじめに、テーマについて


 今回のツドイに先立つ4月26日の春のツドイでは、はじまりのツドイに引き続いてこどもの未来にYES!をつくるために学びたい課題について話し合いました。はじまりのツドイでの話し合いを受けて「ジェンダーの問題」「食べる」「働く」「経済」「政治」をそれぞれ話題とする小さなグループに分かれて意見を交わしましたが、いずれの話題も私と社会の間にあるものと意識して話し合うことにしました。


 「私と政治と社会」を話題としたグループは、次のように今後学びたいテーマを整理しました。「まず地域の歴史から学び、その中でかつて日本各地に起きた自由民権運動と民間での憲法私案 (私擬憲法) 作成の動きに注意を向け、現在の日本国憲法のことを学び、その上に他国との接し方、外交、平和について考えていけるようにならないか」。これを受けて、今回のツドイのテーマを「地域から、足もとから考える憲法と平和」としました。



2. 講師について


 NHKプロデューサーの塩田純さんは、明治10年代に国会の開設を求めて全国に広がった自由民権運動が高まりを見せた時期に栃木県で最初の自由民権演説会を開いた一人、塩田奥造 (後に栃木県会議員、衆議院議員を務める) のひ孫に当たります。テーマに合う講師の方を探していて塩田奥造を知り、はじめは彼や栃木の自由民権運動にくわしい研究者の方を探しましたが、その途中にNHKスペシャルやETV特集などで憲法や日本そしてアジアの平和をテーマにドキュメンタリー番組制作を続けられてきた塩田純さんの存在を知りました。塩田さんは東京に生まれ育ち、田中正造に興味を持ったことから曾祖父の奥造に関心を持つようになったとのことです。


3. 夏のよみとくツドイの流れについて


 今回は、第1部として塩田純さんの講演「日本国憲法はこうして誕生した」を聴き、質疑応答と意見交換を行った後で第2部夕食交流会へ進む流れでツドイを開きました。講演では、塩田さんが手がけた番組、「ETV特集 焼け跡から生まれた憲法草案」 (2007年2月10日放送)の録画の何ヶ所かを参考に再生しながら行われました。夕食交流会では、いつもと同じく地域の食材を中心につくられたお弁当 (「わたね」さんの提供) を味わった後で、参加者の全員が順に感想や意見を述べ合いました。


4. 講演より−「ふたりの鈴木」に着目して


 講演は「日本国憲法はこうして誕生した」と題し、前半に民権運動と憲法の関係、後半に日本国憲法第9条はどうできたかへ焦点を当てて行われました。そして、前後半を通して鈴木安蔵と鈴木義男、塩田さんがいうところの「ふたりの鈴木」に着目しました。

(前半: 民権運動と憲法の関係)

 「焼け跡から…」でまず見たのは、GHQ (連合国軍最高司令官総司令部) による憲法草案の審議の場面でした。このことに対して日本の憲法はGHQから「押しつけられた」という人がいます。しかし、GHQ草案は、日本の民間の「憲法研究会」が敗戦から3ヶ月後の昭和20年11月から2ヶ月かけて作成した「憲法草案要綱」を分析し評価するなどもしてつくられていました。GHQの報告書には、マイロ・ラウエル法規課長が「民主的で受け入れられる」と書いています。この中には国民主権、男女平等、基本的人権、そして「国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」生存権の保障が明記されていました。一方、日本政府の憲法問題調査委員会 (委員長: 松本烝治国務大臣) がつくった案は、保守的で明治憲法 (大日本帝国憲法) の部分的修正にとどまりました。

 民間の憲法研究会による民主的な「憲法草案要綱」については、生存権が現憲法の第25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」として採用されるなどしています。同研究会のメンバーの一人、森戸辰男はドイツ留学経験があり、ワイマール憲法に学んでもいました。GHQ案は英米の考え方に基づき、社会保障の視点を欠き、25条のような条文はありませんでした。



 憲法研究会の事務局をつとめた憲法学者、鈴木安蔵は京都帝国大学哲学科に入学後、治安維持法違反によって逮捕されています。このことから、労働者や民衆の側に立つ者を処罰する国体とは何か? と疑問を抱き、その解明を目標に自由民権期の憲法私案作成の動きを研究してきました。その中で、大正デモクラシーの中心的人物であった吉野作造の指導を受けたこともあって高知県下で自由民権運動を展開し私擬憲法を作成した植木枝盛 (うえき・えもり) を知り、国が憲法に背いた時に人民が行使できる「抵抗権」を含んだ彼の憲法草案を知ります。彼の案には人民の権利規定がしっかりと書かれていて、それを鈴木が知っていたことからも憲法研究会の「憲法草案要綱」に国民主権がはっきりと打ち出されることになりました。

 塩田さんは、俳優の故菅原文太さんと制作した番組「日本人は何を考えてきたのか 第2回 自由民権 東北で始まる」 (2012年1月15日放送) を振り返ります。明治の藩閥政府に抵抗した側がつくった結社が国権を振りかざす政府に対して有効にはたらいていた「地方でこそ」という時代があり、地方で憲法を構想する力があったのだと。塩田さんは、前半の終わりにこう話しました。「自由民権運動から大正デモクラシー、そして戦後の民主化へと細い糸でつながっていたといえます。それは地下水脈のようでもありました」。


(後半: 日本国憲法はどうできたか)

 9条は、GHQ草案の中になかったのだそうです。戦争放棄の規定はあっても、平和の文字はなかったと、塩田さんは「NHKスペシャル 平和国家はこうして生まれた」 (2017年4月30日放送) を再生しながら説明しました。昭和天皇は敗戦後の昭和20年9月4日の勅語で「平和国家を確立して人類の文化に寄与せむ」との考えを表明しました。帝国憲法改正案委員小委員会 (委員長: 芦田均、自由党) では、GHQの制限規定に対して日本側が平和国家としての再生を積極的に訴えようとの声が高まり、法学者、弁護士を経て政治家になりこの委員会に加わった鈴木義男の提案を受けて「国際平和を誠実に希求」するという条文が追加されました。この時、制限規定は二項に移して冒頭に「前項の目的を達するため」と加えたのだそうです。鈴木義男の経歴については、仁昌寺正一・東北学院大学教授らの研究から明らかにされてきました。

 戦争放棄についても、幣原喜重郎・第44代内閣総理大臣がGHQのダグラス・マッカーサー最高司令官に、天皇制を護り保つこととともに提案したとされます。これは、マッカーサーとの会談の内容を幣原の友人が聞いていたのを、幣原の娘が書き起こしたものを元にした情報で、一次資料は残っていません。

 侵略戦争は放棄するという考えは、1928年にパリ不戦条約で示されたものでした。幣原は外相としてそれに調印していました。その後、幣原には軍部の台頭から政界を追われていた時期がありました。そのような経験もあって幣原が提案した戦争放棄をGHQの憲法草案に含めようとしたのはマッカーサーだったのではないかと、塩田さんは言います。日本の戦争終結条件を示したポツダム宣言には民主化の他に非軍事化も規定されていて、GHQはそれを憲法の条文に加えたということにもなります、とも説明しつつ、塩田さんは最新の知見を考え合わせながらマッカーサーと幣原の関係に意識を向けているようでした。

 帝国憲法改正案委員小委員会の鈴木義男委員はヨーロッパとアメリカに留学した経験があり、第一次世界大戦後に生まれた国際協調と戦争の違法化という二つの新しい概念に現地でふれていました。帰国後、鈴木は東北帝国大学の教授になります。しかし、軍事教練の強制を批判し、同大学を辞職して弁護士になります。弁護士として、鈴木は治安維持法違反に問われた人々の弁護を相当数手がけたそうです。第二次世界大戦後、それを防げなかった国際連盟への反省から1945年10月24日に国際連合が設立されました。鈴木は翌年国会議員に転身します。そして、帝国憲法改正案委員小委員会で、国際連合を中心とした新たな国際秩序の中へ日本を積極的に位置づけようと考えて9条に関した重要な提案をした他、25条の生存権に関した規定を小委員会が残したことにも貢献しているそうです。なお、鈴木義男も鈴木安蔵と同じく吉野作造のもとで学んでいます。



 この帝国憲法改正案委員小委員会の議事録は、50年間非公開にされていました。だから、「日本国憲法はGHQに押しつけられた」といわれても反論の材料が足りなかった、真実がわかるまで戦後50年を要してしまったと、塩田さんは話します。もうひとつ、鈴木義男は戦後、日本社会党の結成にかかわり、同党の議員として小委員会委員となりました。憲法研究会に参加した森戸辰男も社会党員であり第46・47代内閣の文部大臣をつとめるなどしました。しかし、残念ながら彼らの議論は『日本社会党史』にも書かれておらず、議論の内容が広く知らされることがないまま現在に至っているということです。

 塩田さんは講演の終わりに、「9条誕生の背景をしっかり理解した上で議論を行うべきです」と述べました。そして、敗戦後の日本は第一次世界大戦後に生まれた世界的、普遍的な考えをくみ、第二次世界大戦の反省に立って、平和国家として世界に宣誓をしたことをまとめとして話されました。


5. 質疑応答と意見交換、夕食交流会より


 講演後の質問や意見のやりとりからいくつかを紹介します。アメリカ人であったマッカーサー総司令官の日本の平和国家化への姿勢と、それから10年経たない間に同国が1955年からのインドシナ半島へ介入したこと (ベトナム戦争) に矛盾めいたものを感じますとの意見に関連して、塩田さんは帝国憲法改正案委員小委員会にも平和憲法誕生にも沖縄県民が加わっていなかったことを言い添えました。番組をつくりながら、沖縄が平和国家を宣誓した日本の戦後体制に含まれていなかったことに思い当たった。塩田さんはそう言います。



 この他に、参加者からは「『押しつけられた』のでなく日本人がどうしてきたか、表に出てこない人について掘り起こすなどもして調べてきていることに説得力を感じた」「今の憲法がさまざまな日本人の考えを入れてつくられていることがわかった」「小委員会で徹底した議論が行われたことに、国会が本来持つ可能性に対する希望が持てた。一方、国際協調や平和主義を宣誓しながらも、現実には世界の平和を導こうとすることは難しいとわかった」「国という枠を越えて平和のために協力をしていくこと。そのために、自分たちが暮らす地域では日常的に何ができるのか。その両方を追求していきたい」「国内の平和とともに国際平和をどう実現できるか考えていきたい」といった感想や意見が寄せられました。


6. おわりに


 おわりに、この日の会場をお借りした宇都宮大学の国際学部で教え、この日は一人の参加者としてツドイに来られた清水奈名子・同大学准教授 (国際機構論・国際関係論・国際法) と塩田さんの対話を紹介します。夕食交流会で参加者が順に話す中、清水さんは自由民権運動と民間憲法私案作成について「地方でこそ」という時代があったことを振り返り、もう少しお話をと講師に求めました。塩田さんは講演の前半の終わりの説明に情報を補った後、こう言いました。「当時の地方の結社は、その日の仕事を終えてから夜疲れているのに集まって国のあり方や民権のあり方を議論し学びあった…ちょうど皆さんがこうして集まられているのと同じような感じだったのではないでしょうか」。

 細い糸は、知らず知らず今につなぎとめられてきているのかもしれません。次回、秋のよみとくツドイは、春のツドイで「私と経済と社会」を話題として話し合われた内容をもとに企画していきます。



講師略歴:


塩田 純 (しおだ じゅん)

1960年東京都生まれ。1983年NHK入局。文化・福祉番組部エグゼクティブプロデューサー。「NHKスペシャル 日中戦争 ~なぜ、戦争は拡大したのか~」 (2006年) が文化庁芸術祭大賞を受賞するなど、アジアと日本の近現代史に焦点を当てた番組制作が国内外で高く評価される。著書に『ガンディーを継いで − 非暴力・不服従の系譜』『日本国憲法誕生 − 知られざる舞台裏』『尖閣諸島と日中外交 − 証言・日中米「秘密交渉」の真相』『9条誕生 − 平和国家はこうして生まれた』他がある。

講演で紹介された番組の基本情報など−NHKウェブサイトより:

(前半: 民権運動と憲法の関係)

「ETV特集 焼け跡から生まれた憲法草案」 (2007年2月10日放送) https://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2007/0210.html


「日本人は何を考えてきたのか 第2回 自由民権 東北で始まる」 (2012年1月15日放送) *関連ウェブサイトは見つかりませんでした


(後半: 日本国憲法はどうできたか) 「NHKスペシャル 平和国家はこうして生まれた」 (2017年4月30日放送)


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