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2020 冬のツドイのご報告

更新日:2020年3月5日


地域の文化と暮らしの平和--宮古島と益子を結んで


レポート|発起人 簑田理香



1月25日に益子町ヒジノワで開催した「冬のツドイ」のレポートをお届けします。

関心あったけれど都合で参加できなかった!という方も、お話会の書き起こし記録を共有しますので、ぜひ、お読みください。


冬のツドイは、宮古島から染織工房timpabの石嶺香織さんをお招きして「染織の手仕事の展示販売会、お話会、そして、宮古島独自の「神歌」や「古謡」を何世代にも渡って口承で継いできた女性たちと島の風土・風習を描くドキュメンタリー「スケッチ・オブ・ミャーク」(大西功一監督作品)の上映会も開催…という、なんとも欲張りな内容で開催しました。













 石嶺さんは、末っ子の「あやちゃん」をおんぶして、大きなスーツケース2個に作品を詰めて、6時間弱という時間をかけて、ほんとうに言葉通り遠路はるばる、益子ヒジノワに来てくれました。


ガジュマルの気根やフクギを用いた染めの手仕事、苧麻を用いた織りの手仕事、刺繍作家さんとのコラボ作品、骨董屋さんから仕入れた宮古上布の着物などを、まとまった点数で手にとって拝見する機会となりました。しかも、ご本人のお話を伺いながら!なんとぜいたくな…。


 手仕事のものが作られる土地の歴史や自然の文脈や背景、そして作家ご本人の歴史や思い、さまざまなものが交わり合いながら生み出される手仕事の話を、夕方からのお話会はもちろん、昼間の展示エリアでも訪れた人に丁寧にお話してくださいました。


 朝から夜まで、お客様も絶えることなく、また、町内外の染めや織りの作家さんも訪れてくださって、石嶺さんと染料のことや糸のことなど情報交換の会話を弾ませていらっしゃいました。

 『スケッチ・オブ・ミャーク』は、3回の上映で48名の方にご覧いただけました。その中でも、なんと、映画の原案・監修・出演を務めた久保田麻琴さんと、かつて音楽活動をともにしたいたというドラマー井ノ浦英雄さん(県北にお住まい)が、お仲間の三線の会の方や、宮古島の西67kmに浮かぶ多良間島ご出身の方とご一緒に来てくださり、映画鑑賞後に石嶺さんとの立ち話も弾んでいました。




 そして17時からのお話会には、26名のご参加をいただきました。内容については、書き起こしの記録をぜひ、お読みください。

 最後に、石嶺さんは、最近お亡くなりになったお祖父様との関係性のことを語ってくれました。そこで「愛」という言葉を使われていました。その具体的な経緯やエピソードから、まさに「愛」としか呼びようがなく、「愛」というものの実態が初めて見えた気がしました。


 同時に、私たちは「愛」や「平和」という言葉をついつい使いがちですが、果たして、その「具体」を自分のものとしてちゃんと持っているのか?と省みる機会にもなりました。

 自分たちの地域の文化を守ることが、自分たちの暮らしの平和をつくることに繋がる。相手の地域の文化を知ることが、相手の暮らしの平和を守ろうという想いに繋がる。お互いを理解し、お互い尊重しあう。


 そして、大切に守り、未来に繋ぎたいものは、何なのかを、ひとりひとりが確かめていく。あの日あの空間に集うことができた皆様と、それぞれの生活の中で、そんな「これから」の手がかりを大切に育てていけたらと思います。


報告:簑田理香(発起人) お話会・書き起こし協力:鈴木潤子




お話会の記録

 

はじめに:簑田より石嶺さんの紹介


 皆さま、あらためましてこんばんは。

きょうは宮古島と益子を結んで、地域の文化と暮らしの平和を考えるということで、宮古島から染織工房timpabの石嶺香織さんに来ていただきました。



 皆さん、昨日から急に暖かくなったと思いませんか。

こちらは一昨日すごく寒かったんですが、石嶺さんは、昨日、益子に到着されたんですが、宮古島から那覇、那覇から羽田と乗り継いで、2つの大きなキャリーケースいっぱいの作品と一緒に、温かい空気も連れてきてくださったようで、、今日を迎えることができました。



 これから1時間ほど、石嶺さんのお話をお聞きしたいと思います。

はじめましての方もいると思うのですが、私は益子に住んでいる簑田と申します。2年半ぐらい前に、ここで三上智恵監督のドキュメンタリー『標的の島 風かたか』という映画をみんなで見まして、そのなかで、石嶺さんも、子育て中のお母さんとして基地問題をどう考えたらいいのかという模索をしながら動いていらっしゃる様子が描かれていて、私を含めて発起人のメンバーや、いつも会に参加してくれている方たちは、ここのスクリーンの中で初めて石嶺さんに出会いました。



 手仕事の、染と織のお仕事をされていらっしゃるということで、その後、工房のページ

などを見せていただいていて、ちょうど1年前に、ヤシラミ織のショールが商品としてア

ップされていて、すごくその風合いが気に入って、自分が手にとって確かめたことがない

ものを通販で買うということを滅多にしないのですが、連絡をとり購入させていただいた

んです。


 その土地その土地で、伝えられる歌や作られる食べ物が違うように、その土地の植物か

ら作られる織物。染料も違うし、土地によって豊かな文化があるんだなということを感じ

ながら愛用しています。


 石嶺さんがSNSに投稿されることなどを拝見していて、織と染をやりたくて宮古島に移

住されたのに、沖縄とか宮古、石垣島などを取り巻く状況が変わっていくなかで、4人の

お子さんを育てながら、作り手として、アーティストとして、葛藤を抱えながらも、前に

進んでいらっしゃる姿勢にすごく共感するところがあって。益子はものづくりの人が集う

町でもあるので、そういうところでお話を共有できたらなと思っています。


 今日、ほとんどの方に観ていただいたと思うのですが、「スケッチ・オブ・ミャーク」

の映画が、池間民族の神歌や昔の風習などを伝承している結束が強い「池間民族」と呼ば

れる方たちを描いたものでしたが、実は、嫁がれた先のお母さまがそのご出身であったり、

いろいろご縁もつながっていて、そんなお話も聞ければなと思います。



では、映画の感想のことなどからお話しいただければと思います。よろしくお願いします。



石嶺さんのお話


暮らしと結びついた祭祀のあり方

 

 こんばんは。宮古島から来ました石嶺香織と言います。よろしくお願いします。今日は

たくさん集まっていただいて、ありがとうございます。

 先ほど、簑田さんからもお話があったんですが、私は福岡出身なんですが、宮古上布を習いたくて、最初は1人で移住しまして。12年前ですね。そこで工房に入って、習っていまして。織物を習うときはお給料も出ないので、昼間9時から5時までとかずっとやっているんだけれど、ほとんど無給で習うような感じなので、夜アルバイトしていまして。塾で働いていて。そこで夫と知り合って結婚したんです。


 

 その夫が宮古島出身で、夫のお父さんもお母さんも池間民族になるのですが、お父さんのほうが、先ほど映画に出てきた西原というところなんですね。スーツの男性がみんなで

踊っていた、あそこです。

 

 お母さんが佐良浜といって、三角形の宮古島の左側に小さな島があるのですが、これが伊良部島といって、いまは橋でつながっているのですが、この伊良部島の佐良浜という漁師町が夫の母の出身地です。佐良浜と、宮古島の北のほうに池間島がありまして、あと宮古島の西原というところの3カ所が池間民族という民族なんですね。



 順番としては、北のほうにある池間島から伊良部島の佐良浜に移ったんです。池間と佐

良浜両方から、西原というところにまた移っていまして、それが130年ぐらい前というこ

となんですが、西原の文化自体は、そんなに歴史は古くないんですが、民族としてはずっ

と伝承されているので、いろいろな歌などが残っているんです。


 いま宮古のなかでもかなり祭祀をやっている、残っているほうだといわれています。そ

の分、地域の結束が強かったり、縛りがきつかったりして、住みにくいとか、そういうこ

ともいわれていまして。うちの夫の家は町中に家を建て直して、西原を出てしまっている

のですが、ルーツは佐良浜と西原にあるので、言葉などを聞いていて、同じだなという感

じ。


 言葉が違うのに驚かれたと思うのですが、宮古島の中でも全然言葉が違うんですね。私

はそんなには聞き取れないんですが、イントネーションとかを聞いていて、池間民族の言

葉だなというのは分かるようになりました。


 映画の話をしはじめたらとまらないかもしれない。少しだけ。

 今回、私の作品をいろいろ持ってきまして、宮古上布、アンティークの宮古上布も持ってきているのですが、藍染めの濃い紺色のものが、宮古上布の着物をほどいて作ったものです。 


 それを見ていただくにあたって、この映画とセットというのはすごくよかったなと思っ

ていて。やはり、単純に洋服とかものとして見るというより、きょうの映画を見ていただ

いたら分かると思うのですが、祭祀があって、そのために織るとか、ただの衣料品として

のものではなくて、祈りとか、そういうものと布が一体となっているんですよね。映画で

は、歌と祭祀は一つだと言っていましたが、布もやはり関わってくる。


 いま、西原のほうではスーツになってしまっているのですが、あれも彼らにとってはす

ごくいいものを着ているという感じなんですよね。もともと着物でやっていて、洋服が出

てきて、普段は農業などをやっているおじさんたちなんです。ネクタイを締める機会など

ないです。その人たちが一番いい服を着るというので、ああいうふうになってしまってい

て、ちょっとどうかなと思うのですが。そういうものなんですね。


 女性たちは着物を着ていたと思うのですが。ブー績みのシーンもありましたね。苧麻を

おばあが績んでいる。なめているのかつないでいるのか分からないぐらい唾を使ってくっ

つけるのですが、もちろんひねったりするのですが、いまの人は唾をつけないで、水をこ

のへんに置いてつけたりするのです。おばあの唾液でやったのとは違うみたいな(笑)。

やはり粘着性があるので、それでちゃんとした糸ができるというのがありました。

 

 祭祀が消えていくという、いまこの映画だけ見ると、本当にすごくいい世界観があるん

だなという感じですが、実際はこれを守るのも大変だし、宮古島にいても関わっていない

人は全然分からないし。祭祀を守っていくというなかで、私は祭祀は祭祀だけであるので

はなくて、もともとは収穫のお祝いだったり、宮古上布の納税が大変で、人頭税という女

性に課せられた税金、それが大変で、年一回の納税が終わって解放されたときに踊るとか

、そういう労働があって、喜びがあってというセットなわけです。なので、祭祀だけ守る

というのだけでなくて、やはり生活スタイルがすごく変わってきていて、失われていって

いるものがあります。


 西原でやっている祭祀でも、収穫祭といってもひとつだけではなくて、粟が取れたお祝

いとか、おいもが取れたお祝い、お米が取れたお祝いとか、ツカサ大変だと言っていたん

ですが、カレンダーびっちりなんです。仕事をやめないとできないぐらい、ずっとこのと

きは何日間、御嶽に泊まり込みですとか、普通に考えたらできないような生活をやらない

といけないんですね。


 そういういろいろ生産して作る労働があって、それに対する祈りや祭祀というのがある

ので、いま変わってきたなかで、ではどうやって守っていくのかというところなんですが。


 ただ祭祀を守るとか、方言を守るとかだけでなくて、完全に昔に戻ることはできないに

しても、やはりそれを生み出した生活とかを見直したり大切にするという。


 無意識にああやって着物から背広になってしまったこともあると思うのですが、いまの人たちは自然にやっていたら、そういうこととは関係ない生活になっていくので、ある程度、意識的に守っていく、選んでいくということをするのが大事なのかなと思っています。


 ひとりの人が亡くなると「文化」が消えてしまうということ

 私自身は織を通して、それをやれたらなと思っています。


 私もおばあたちが言っていた神様というのを、実際にすごく信じられるかと言ったら、宮古で育った人間でもないし、そんなに信心深くなれるわけではないのですが、最初に宮古に来て工房に入ったときに「糸の神様」とか工房の先生たちは自然に口にするんですね。


 宮古の苧麻糸というのは、小さい枷でなくて長い7mぐらいの枷で、棒と棒を立てて、そ

こに張っていくのです。それを巻いていくのですが、そのときに糸の神様だからまたいで

は駄目とか、すごく言われるんです。だけど、部屋にばーっと張っているから、どうして

も面倒くさくなってまたいでしまったりしたことがあるんです。そうしたら、苧麻は細い

から見えなくて、数本切れてしまったりするんです。


 それを聞いてやはり、神様だから大事にしなさい、またいでは駄目とかいうことが、

いろいろなことを教えているというか、切れたりすることも防いでいたり、神様だよと迷信

のようなことを守ることによって、いろいろな教えのようなものが「糸が切れるからまた

いではいけませんよ」という伝え方ではなくて、神様だからまたいではいけませんよとか、そういう伝え方になって機能しているんだなと思うことがあったり。


 あと、御嶽(うたき)の周りの木も絶対切ってはいけないといわれるんですが、いまは

すごく開発が進んでいて、御嶽のところしか木が残っていないんです。御嶽の周りの木を

切ってはいけないと言われているから、みんな怖いと思うから切らないんです。だけど、

そういう畏れる気持ちがなくなってしまうと、どんどん開発が進んでしまう。


 映画でも、おばあがの話で迷信と出てきましたが、迷信のようなことがあるなかで、い

ろいろな人間の生活が守られている。


 うちの夫のお母さんは、「標的の島」にも出ていたのですが…、子どもが産まれて、名

前の紙とかを見て、あとは胎盤を埋めたりするシーンとかです。

 

 昨年亡くなったのですが、やはり一緒に接していると、迷信みたいなことばかり言って

きて「うっとうしいな」という感じなんですよ。「夜は御嶽の前を通っては駄目よ」とか、「帰り道は遠回りしなさい」みたいなことを言うけれど、私たちは無視して通ったりし

ていました。

 

 でも、失ってみると、その人の存在そのものが文化だったんだという感じがして。ひとりの人が亡くなると、文化が消えてしまうみたいな、それぐらいやはり大きな差がある。その世代の人たちが持っていた文化と、私たちが持っている文化が、きちんと継承されていないから文化が消えてしまう感じがすごくするんです。映画のおばあたちもそうだと思いますが。だから、意識的にやっていくことが大事かなと思っています。



福祉の仕事から手仕事へ、水俣から宮古島へ


 私が織物をやろうと思ったきっかけについてお話しますね。私は25歳ぐらいで織物をや

りたいなと思って。それまで福祉系の仕事をやっていて、障害を持った方たちが絵を描い

てTシャツのデザインをして、それを商品化して通販で売ったりするようなお仕事をして

いまして。

 

 そのなかで、障害を持った方たちが最初のデザインはするんだけれど、そのあと、やれ

ることが少なくて、Tシャツを作ったり、プリントしたりするのは外注だったので、もっ

とこれが手仕事だったら、いろいろな仕事が生み出せるのになと思っていて。

 彼らの仕事がないことにすごく自分の中で葛藤していたというか、もっと手仕事ならいろいろな工程があって、この人はここができる、この人はここができるとか、そういうことができるのになという思いがあって、だんだん手仕事に興味を持って、私自身が織物をすることになっていったんです。


 最初は熊本の水俣に行って、個人工房に住み込みで1年ぐらい習いました。

そこは和紙と機織りの工房で、夫が紙すきをしていて、妻が綿を植えて、わたを取って、糸つむぎから織るところまでやって、それをある程度習って。

 そのあとに、産業として織物が成り立っているのは、いまは沖縄ぐらいだよということを聞いて、沖縄で学ぶ場所を探して、そのなかで、離島なら後継者が少ないから外からの人も受け入れてくれるよという話を聞いて、いろんな縁もあって、宮古島に行ったんです。


 沖縄も、織物の種類は地域ごとにいろいろありまして。宮古上布を選んだのは、原料か

らすべて島で手づくりしているというのが宮古島だけだったんですね。

たとえば首里織とかは絹で、絹糸は中国から買っていたりとか。もともとは蚕からやっていたと思うのですが、いまは、原料を島で育てて、糸を手紡ぎとか手績みをして、織物をしているところは、日本全国でほとんど残っていなくて。それをやっているのが宮古島だったんですね。


 これはアンティークですが、苧麻という草の茎から繊維を取って、裂いて、糸にして。

それからこれは絣です。くくってから藍染めして、織るという工程をやっています。



 穏やかに手仕事をする日々ではなくなる・・・


 織物をやりたいと思って、宮古に移住して、結婚して子育てもしながら、織をやってい

たのですが、宮古島に陸上自衛隊のミサイル基地ができるという話になって、まだそのと

きはもちろん三上さんの映画もできる前ですよね。これはもう穏やかに織をやれるような

生活ではなくなるかもしれないと思って。


 やはり文化というのは平和あってのものだから、もちろん戦争になったらそんなことは

できないし、その前に戦争のような雰囲気になってきたら、ものづくりする人なんて切り

捨てられていくというのは、前の戦争で分かっていることなので、ちゃんと止めないとい

けないと思って。


 そのときは計画段階で止めないといけないと思いまして。辺野古を見ていたので、工事

が始まってしまってから止めるのは難しいし、自分たちのような子育て世代がずっと座り

込むなんてこともできないし、仕事もしなければいけないし。やはり計画の時点で止めな

くてはいけないと思って、反対運動を始めました。


 議会に陳情書を出したりするなかで、議会を見に行くようになって、委員会の傍聴をし

ていましたら、地下水のこととか、自衛隊配備を止めてくれと陳情を出していて、議論さ

れるんだけれど、まったく知識のない人たちが議論していて、陳情は切り捨てみたいな感

じの状況を見て、私が見ていたのは総務財政委員会というところだったのですが、このな

かに入って私が絶対手を挙げたい、採決にも入るようにならないと、この人たちが決めて

いるんだから、やはり議員にならないと駄目だという思いが、運動を始めてから1年ぐら

いでそう思いまして、一番それが有効な手段かなということと、市長を追い詰めないとい

けないと思って、議員になりました。




 最初は、「てぃだぬふぁ 島の子の平和な未来をつくる会」という会を作って…、

議員になる前ですが、市役所の前で毎週スタンディングとかをやって、そのころはSEALDsが国会前でやっていたころで、私たちも同じような感じでやろうといって、市役所の前で抗議行動を毎週金曜日みたいな感じでやったりしていたのですが。


 ある程度人が集まったら、それ以上増えなかったんですね。島中の人がみんな反対して、SEALDsのように人がすごい集まるんだと思ったのですが、20人程度で、もうあとはい

つも決まったメンバーみたいな感じになって。

 

 実際は、いろいろな人と会って話したりすると、自分も反対だよとか、頑張ってねとか、

声を掛けてくれる人は多いのですが、なかなか輪が広がるというふうにならなかったです。途中で仲間を増やすとか、輪を広げるということを私は諦めてしまって。もうしょう

がない。この島の中ではすごく言いにくい案件なんだなというのが分かってきて。


 沖縄は自衛隊員に息子がいるという人がすごく多いんですね。あとは親戚とか隣の人と

か近所の人が自衛隊に行っているというだけで、もう自衛隊配備反対というのは言えない

と思っているんです。


 家族が自衛隊ということと、ミサイル配備反対ということは、本当は全然別のことで、身近な人がいるからこそ、そんなものは作ってはいけないと思うのですが、なかなかそこまで考えるというか、そういうふうに思う人は少なくて。


 自衛隊配反対といったら、自衛隊のことを悪口言っているみたいな感じの、そういうふうな思考になってしまうので、なかなか声を上げられる人がいない。


 あとは、建築関係ですね。基地を作るのはすごく儲かるので、この間、カジノの賄賂疑

惑で問題になった下地幹郎さんとか、宮古島出身の議員ですが、あの人の兄弟が宮古の中

で一番大きな建築会社の社長なんですよ。辺野古もやっているのですが。そういう建築関

係の人が周りにいると、またもう言えないとなって、かなり多くの人が言えない状況にあ

るんです。


 そのなかで、私はもうみんなが言いにくいならいいやと、私はみんなの代わりに言う役

割でいいと思って、自分が犠牲になるではないですが、そんな感じでやってきたんですね。


 映画を作るときに、三上さんともお話をしたのですが、周りの人がやはり心配して、顔

とか名前をあまり出さないほうがいいんじゃないかとか、子どもも映っていたりするので、

子どもを出さないほうがいいのではないとか言う人たちもいたのですが、やっぱり三上

さんが、個人の名前を出して、顔を出して、個人のストーリーをきちんと見せないと、こ

こに生きている人というのが伝わらないと、みんな共感しないし、考えてもらえないから、

やはり出すのは大事だという話をして、私もそれでいいですという感じだったですね。


 山城博治さんとか島袋文子さんとか、そういう人物を通してみんな物事を理解していく

というか。ざくっと風景だけ映しても、やはり皆さんは感情移入しにくいし、自分事とし

て捉えにくいというのがあると思うので。


 それで私は、そういう演出の下、演出の下というか、別に三上さんの演出ではないので

すが、私自身がそういうつもりでやっていました。

 始めた当初は、ママたちから市長への手紙とか、そういう新聞投稿をしたり、お母さん

がこんなに思っていますみたいな感じのをやってみたりしました。ちょうど、「安保関連

法に反対するママの会」の西郷さんがママの会を立ち上げたのと、「てぃだぬふぁ」がで

きたのは一日違いなんですが、同じころにそういうことが進んでいたんですね。

 法制化ということと、現場ではそういう実戦部隊ができるということが同時並行で行われているなというのをすごく感じていたのですが。



落胆や失望の気持ちを抱えながら、ふたたび織りの仕事に。


 ただ、そうやって自分が痛い目に遭ってもいいから、それで止めるんだみたいな、止め

るためなら自分が犠牲になってもいいという考えでやることは、やはりちょっとマイナス

の要素もあったなと、いまはすごく思うんですね。余計にいろいろな人が参加しにくくな

るというか、私はいろいろな発言でたたかれたりもしていたので、なんか言ったらあの人

のような目に遭うんだみたいな、そういうふうになってしまうと、どんどん普通の人から

遠ざかっていってしまって、本当はもっとどんな人でも入りやすい活動、やわらかい活動

とか、やわらかい表現とか、そういうふうにやっていけばよかったのですが、だんだん皆

さんも遠巻きに見るような感じになっていってしまって。それはやはりよくなかったなと

思っているんです。


 私は補欠選で議員になりまして、10カ月間やったのですが、そのあとの本選では落選し

たんです。やはり地盤があるわけでもないし、いろいろなバッシングとかもあって、難し

かったかなと思います。選挙の直前に産経新聞に書かれたりとか、いろいろありました。

「ヒゲの隊長」って呼ばれてる佐藤正久議員にツィッターで書かれたり、そういうのも

ありまして、やはり自衛隊を配備したい人たちには目の敵にされていたのですが。


 落選して、そのときは698票取ったのですが、800ぐらいが当選ラインだったんですね。

2017年10月22日に選挙があって落選して、その月の30日から千代田のミサイル基地建

設の工事が始まったんです。

 

 それまで私は2年間ぐらい織物をまったく休んで、ずっと活動をしていたんです。議員の間だけでなくて、議員になる前からほとんど活動で一日が過ぎてしまっていて。


 座り込みとかではないのだけれど、いろいろな資料を作ったり、質問を出したり、陳情書を出したりということをやって、それだったら、議員になったほうがいいなという状況だったんですね。2年ぐらいずっと休んでいたんです。やりたかったけど、できなかった状況があって。それで、工事が始まってしまったというのと、落選したこともあって、いままでのことはなんだったんだろうみたいな、これだけやっても止められないんだという失望感や絶望感がすごく大きくて、織物をやりながら、リハビリみたいな感じの時期を過ごしていました。

 

 織を久しぶりに始めて、そのなかで、あそこにもあるジュゴンのものを作ったり、今日

は持ってこられなかったのですが、宮古上布に刺繍をしてもらって、ジュゴンの額装作品

を作ったり。

 

 あとは、2016年に米軍属の男性に殺されたうるま市の二十歳の女性がいましたよね。

彼女を追悼するときに、沖縄の皆さんが黒い蝶々で鎮魂の意を込めて追悼しました。そう

いった蝶々のモチーフを作品に込めたりとかして、そういう作品を作るようになっていっ

たんです。それで辺野古のことも作品にちょっと言葉を添えたりとかしたんですね。

 

 それまで、SNSとかで私が政治的に、議会でどうのこうのとか、法律がどうのこうのとか書いても、全然反応がなかった人たちから、作品を通してだったら、「いいね!」とかしてくれて、この人がそんなことに賛同してくれるんだ!みたいな、すごい驚きがあって。

こんなに伝わるんだみたいな。

いままですごいスルーされていたのが、きれいなものとか、美しいものを通してだったら、こんなに受け入れてもらえるんだなというのにすごくびっくりして。


 それで、いままですごく私は、自分が犠牲になるわみたいな、そういう感じでやってきたのが、転換したんですね。

 

 アートというのは、受け取る人の間口をすごく広げる。議会報告とかいっても、来る人

は一部ではないですか。でも、作品展とかだったら、もっとたくさんの人が来てくれたり。


 間口を広げるということと、やはり頭というよりは心に届くようなことがあるんだなと。

無意識の層に働きかけるようなところがあるんだなと思いました。

 

 それで、いままで作品とか織物というのと活動はすごく分けて考えていて、特に自分の

工房の展示などは、私は政治なんてしていませんみたいな、まったく書かなかったんだけ

れど、だけど、ちょっと融合させていくというか、自分のなかで一つになっていくような。

作品を通してもこういうことが伝えられるんだという手応えを感じて、少しずつ変わっ

ていきました。

 

 政治というのは、いまある既存の枠組みを変えるとか改善するというところにあると思

うのですが、アートとか、思想というのは、もっと新しい枠組み自体を作っていくとか、

そういう試みなのかなと思って、いまはそういうアート的な表現とか、そちらに興味があ

るというか、可能性を感じるんですね。


 なぜかというと、いまの宮古島というのが、結局、県外のチェーン店がいっぱい入って

きたり、ドン・キホーテもできたし、吉野家もできたし、マクドナルドもなかったのがで

きたり、イオンもできたりとか、そうやってどんどん便利になっていくんだけれど、結局

お金はどこに流れているんだろうと。それで、みんなバイトで働かされてみたいな感じで。


 あとは、基地を作るとか公共工事をどんどんやって必要もないものを作って、建築屋に

頼るというような、そういうことがメインになっていて。もっと地域にある自然を生かし

て、環境を守りながら、でも資源も使ってものづくりをしていくような、そういうふうに

変えていきたいなとすごく思って。


 それは、政治ができることでもないというか、もっと生き方の提案とかアートとか、政

治でできることを自分なりにできるだけやって、変わらない限界が見えて、もっと人の意

識そのものを変えないと、いくら基地反対とか訴えても、賛成している人にはもうそれ以

上は届かない。


 反対している声が聞こえるだけで、怒りが聞こえるだけで、その人たちの心が、では反対してみようかなとか、そういうふうには変わらないので、意識そのものを変えていかないといけないんだと思ったときに、やはり自分は、今はアートとか、そういうことを通して伝えていきたいなと思うようになりました。


 なので、すごく遠回りな方法だとは思うのですが、基地は必要ないよねとみんなが思っ

ていくような宮古島に変えていかないといけないかなと、いつか撤去したいなとは思って

いるんですが。


 辺野古でもいま座り込みが続いていますし、宮古でも東のほうに保良というところがあ

りまして、そこで弾薬庫の建設が、いま工事が始まっているのですが、そこでも座り込み

をしている人たちもいます。


 でも反対と言っているばかりでも頭打ちのような感じがしていて。

よく運動のなかでは、声を上げ続けることが大事と言われるのですが、私はやはりちゃんと本当に変化が見たいというか、変化をしてほしいので。

 

 ではどういう方法が有効なのかと考えたときに、やはりもっと意識を変えていかないと駄目だなというふうに思っています。



主義や立場を超えて、人と人との愛情に立ち戻る


 私は1月17日に祖父が亡くなったんです。福岡なんですが、小さいころからすごくかわ

いがってもらったおじいちゃんなんですが、すごい自民党支持者で、しかも建築関係の会

社をやっていたんです。小さい会社ですが社長をやっていて。自民党の議員を応援したり

するようなおじいちゃんだったんですね。


 私が議員になったりしたときとか、こういう反対運動をしていることも、祖父はすごく

面白くないと思っていたし、こういう問題が出てきて、関係がぎすぎすしていたんですね。

なんとなく気持ちも遠のいていったんですが、昨年末から病気になって。


 91歳だったのですが本当に亡くなる間際になったときに、そういう考え方の違いで心の距離を感じていたのって、なんだったんだろうみたいな。自分のなかで本当に愛情しか残っていなくて。

 

 宮古島の中でもそうなんですが、すごく賛成派と反対派で、自分たちで距離を持ってし

まうんですね。あの人は賛成だから話しにくいとか、そういうふうになって。島が分かれ

ていくというのがあって。



 でも、本当に人が亡くなる間際になると、そんなのってどうでもいいじゃないですか…

本当に大事にしてくれてありがとうとか、そういう感情だけしか残ってないなかで、なぜこういう考えの違いで、こんな関係の悪い数年間を過ごしてきてしまったのか。


 やはりそれは、普段の生活の中でも、結局自分たちがすごく損をしているのではないかと。そういうことでいろいろな人とのつながりが切れてしまったり。考えはいろいろ皆さん違うと思うのですが、「あなたはそういう考えなんですね」でいいんじゃないかなと思うんですよね。


 こっち側の人、あっち側の人と分かれなくても。私は祖父の死を通して、もっと人と人の愛情とかそういうものを大事にしていくようにしないと、人々はどんどん分断されていくのではないかなと思っています。


 いま、これからやっていきたいと思うのは、もともとやっていた福祉の仕事に戻ってい

くことですが、ものづくりをするなかで、私はいま工房をひとりでやっていて、全部自分

で作っているわけではなくて、いろいろな人に、がま口を作ってくださいとか、刺繍をし

てくださいとか頼んでやっているんです。

 だけど、もう少し私のところで織るということを、織るのもひとりだと限界があるので、仲間を増やして、いろいろな人とやりたいのですが。


 そのときに、障がいがある人とか、女性でいろいろな問題を抱えている人とか、いまDV

の支援をやっている団体の人ともつながったりしているのですが、そういう社会で生きに

くさを抱えている人たちの仕事づくりに、この手仕事がなっていけばいいなと思って。


 やはり手仕事は、やるだけでもすごく元気を与えてくれるし、そこにもちろんちゃんと

収入がついてこないといけないのですが、そのためにもちゃんと商品化して売るという流

れを作っていきたいと思って、いろいろな商品開発をしているんです。

 

 織っているだけでは、反物がありますといっても、なかなか売れていかないので、やはりいろいろな人が暮らしの中で取り入れられる形にして、売れていけば、いろいろな人の仕事が作っていけるなと思ってやっています。


 それも、私の場合は、あくまでも目的が福祉というのではなくて、ものづくり、作るこ

とというのが先にあって、結果的にそれが福祉にも役立っているねとか。経済の話でもそ

うですが、作ることがあって、それがあるから宮古島は潤っているねとか、仕事がちゃん

とあるねというようになっていけばいいなと思っていて。


 そのへんの信念は、結構始めたころから変わらないのですが、織物をやっている先輩た

ちのなかには、織で食べていけるなんて、最初から思っては駄目と言われたこともありま

す。これは副業と考えて、ちゃんと本業をやりながら、趣味でやらなきゃ駄目よとか言わ

れるんですが。


 私はやはり手仕事で身を立てるって、なんかすごくいい、なんというか、いま私がやっ

ている手仕事は、自然の力を借りて、苧麻ですね。自然に対応して苧麻の力と、あと人の

手の力ですね。

 

 手仕事の力をすごく信じているところがあるので。それを失っていったことが、いまの社会の問題を作っているのではないかと思っているんです。


 ガンジーもそういう考えで、チャルカを皆さんに推奨していったんだけれど、結局、イ

ンドがイギリスに支配されて、いままで自分たちで綿を紡いで、糸を作って、自分たちの

服を作っていたのに、イギリスに綿を売って、糸が全部産業革命で、イギリスの工場で作

られるようになってしまって、自分たちはお金を払って布を買わなければいけなくなって、

お金に支配されていって、仕事もなくなってしまったというところから、ガンジーはチ

ャルカ、糸車ですね、取り戻して、自給していこうという呼び掛けをしていったんです。


 そういう仕事が存在することが、社会をまっとうな社会というか、豊かで人間らしいと

言いますか、そういう社会を保てる。いくら思想でそういうことを考えても、なんていう

のかな、うまく言えないのですが。


 たとえば、機械で作られた大量生産された服は、やはりいくら物を大事にしなさいと言

われても、まあいいや、捨てちゃおうみたいに、やはりなってしまいますよね。


 でも、こういう手仕事のもの、買ったら簡単に捨てないですよね。人がどれだけ手をかけて作ったかが分かっていれば、ものは簡単に捨てないですよね。


 そんなふうに、ちゃんとその過程に関わることとか、

 その価値を知ることが、


 ものを大事にすることにもつながるし、やはり考えだけでは駄目だというのをすごく思っていて。

 

 実践があって、そこからいろいろなことが自然と分かってくるとすごく思うので、手仕事

の力をすごく信じていて。


 いま私が人を雇えるかといったら、なかなかそこまではいかないのですが、たくさんの

仲間でものづくりをしていきたいなというのは、宮古に来た当初から思っていて、そうい

う形ができるように、これからもやっていきたいなと思っています。ありがとうございま

した。


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